陸軍航空科上等兵 三船敏郎(本名)中国山東省青島出身 昭和13年 旧制大連中学卒 昭和15年 徴兵適齢の為 甲種合格 満洲国公主嶺の陸軍第七航空隊に入隊 父親の家業である写真業手伝いをしていた経験と知識があった為 航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員となる 昭和16年 内地(滋賀県八日市)陸軍八日市飛行場「中部98部隊第8航空教育隊」に写真工手として転属(後に第7中隊の特業上等兵として炊事班長と異なる責任者の任に付く)昭和20年 熊本の隈之庄 陸軍特攻編成基地に転属 出撃前に於る特別攻撃隊員の遺影を撮影する任務に付く 写真班で航空写真を基に要地地図を作成 また少年航空兵の助教「教育係」を兼務中に終戦(甲種合格の戦隊勤務 現役5年兵)
※父三船徳造は秋田県由利郡川内村小川出身で漢方医の息子 祖父との不仲や次男で実家を継げなかった為 満州へ渡り貿易商や写真業を経営するも事業に失敗 三船敏朗が5歳の時に大連に移り住み「スター写真館」を開業 昭和15年 三船は古年兵の大山年治(東宝撮影所撮影部所属)より俺はこの3月に満期除隊となるが来年はお前の番だ 満期になったら東京砧(東宝)の撮影所へ来い 撮影助手に使ってやる と誘われるも戦況は逼迫し満期除隊は無くなってしまった為 以後終戦まで5年間 軍務に就く事となる 昭和18年 中部98部隊に現役入隊した鷺巣富雄「後の東宝特撮プロデューサー」とその後 生涯にわたる交友関係となる 鷺巣は三船の写真技術の高さを認め円谷英二 大石郁雄と並んでの映画界の師と仰いでいる 上官に対し不敵な態度を取っていたので「古参上等兵」止まりで5年間の軍隊生活を過ごす 関東軍の初年兵当時 私的制裁「リンチ」が凄まじく1発2発のビンタでは倒れないので余分に殴られ声が大きいだけでも殴られ顔が変形する程だったとタモリの「今夜は最高』昭和59年のTV対談で語った 三船の長男史郎氏の話によると翌日特攻出撃する少年航空兵にはスキヤキを作って食べさせたと涙を流して語ったと言うまた少年兵に向かって最後の時は恥ずかしくないから「お母ちゃん」と叫べと言っていた言う 後にあの戦争は無益な殺戮だったと海外の報道取材に対して語っている 軍隊当時 部隊内で三船は喧嘩になると階級章を外して俺も外すからお前も外せ お互い階級章をはずして人間対人間で行こう!と言って啖呵を切りそうすると相手は意気消沈してしまったと言われる また他の兵隊が古兵に虐められているのを見た時は同じ日本人なのに何で虐めるんだ!俺は俺の階級を忘れる お前もお前の階級を忘れて俺と勝負しろと言ったと云われる 熊本の陸軍隈之庄飛行戦隊から父の生家である秋田県由利郡鳥海町小川の三船家に復員帰郷 毛布1枚と米を貰い東京に上京する 三船は前出 大山年治(東宝撮影所撮影部所属)との約束を頼りに旧陸軍の復員軍服のまま大山を訪ね撮影助手採用を願い出たが何かの手違いで三船の志願書が俳優志願の申込書の中に混じり三船は面接を受けることになった 出征社員の内地復員による復帰社員が増加した事により縁故採用が極めて難しくなっており大山が三船に「とりあえず第1回ニューフェイス募集をしてるから受けてみろ 貴様の面なら合格するはずだ 入ってしまいさえすれば撮影助手に呼べるからな」と助言した為 不本意ながら俳優志望として面接を受ける事になったと言われる 後の俳優 三船敏郎の始まりである。
中部98部隊第8航空教育隊当時。
陸軍満州第7航空隊当時(戦後の東宝等映画用スチール写真では無い)

陸軍第8航空教育隊当時。

空中勤務時(同乗者)の三船。

同上。
晩年。