出身は新潟県三島郡越路町 徴兵適齢の為20歳で甲種合格 昭和19年1月 根こそぎ動員の現役兵として内地より北満州「ソ満国境」関東軍独立守備隊に入営 入隊前の19才〜20才で浪花節の座長として地方のドサ回りをしていた当時の芸名「南條文若」本名「北詰文司」は部隊内でその腕を生かし入営後半年も経たない内に各中隊別に口演を行い後に「1選抜の浪曲上等兵」と渾名される 昭和20年8月9日未明 日ソ中立条約を破棄して満洲国に侵攻したソ連邦のソ連軍と北詰の所属する独立守備隊は交戦 部隊は壊滅的損傷に陥るも 終戦を経過した9月初旬頃迄 部隊は戦闘継続 北詰は負傷したまま終戦を同地で迎え9月11日 ソ連軍より武装解除を受け残存部隊は捕虜となる 10月にハバロフスクの捕虜収容所に移送され22歳〜26歳迄の約4年間 辛酸なシベリア抑留生活を送る各収容所内でも浪曲を披露していたがソ連側の徹底した思想教育の中で演目にも検閲が入り自らも強い影響を受けオリジナルの「思想浪曲」や芝居を創作しソ連各地の収容所で披露する等 捕虜教育係的な役割を負っていた 所謂思想宣伝班的アクティブでる そうした事実を受け帰国直後は「共産主義に洗脳されていた」と北詰は述べている また当時のソ連の捕虜の扱いについては「国際法を無視し捕虜の人権を蹂躙した国家的犯罪 更にソ連は謝罪も賠償も全くしていない」と非難している 自身の軍隊経験やシベリア抑留経験の反動もあり昭和61年11月10日「天皇陛下御在位60年大奉祝祭」に奉祝委員としてテープカットに参加 また日本を守る国民会議(現日本会議)の代表委員や勝共連合の役員や靖国神社系の理事となり積極的な国粋政治活動に参加する(甲種合格の現役2年兵+シベリア抑留4年)
※終戦後4年間 22才〜26才迄 旧ソ連のハバロフスク捕虜収容所にて苦難の日々を送った反動で戦後全盛期当時の全国コンサート1ヶ所分のギャラは全て勝共連合に寄付されていた事は意外に知られてない。
晩年。